昭和四十八年七月二十七日 御理解第七十八節
御理解第七十八節の最後のところ
神の大恩を知れば無事壮健で子孫も続き一年勝り代勝りのおかげを受けることが出来るぞ。と云うところから頂きたいと思います。信心して神の大恩を受ければと云うところ。まあ大変なことだと思いますね。
神の大恩を受ければ無事壮健で子孫も続き一年勝り代勝りのおかげを受けることが出来ると云う、人間としてもう願って願って止まない事だと思うんです。ですからどうでも神の大恩を知らなければならんと云うことになります。 ですから神の大恩を知る為にはどういう信心をさせて貰ったらよいかと云うことになります。
私は神の大恩を・・・今日ここのところを頂いて、神の大恩を知るためにはどういう在り方にならせて頂いたらよろしゅうございましょうかと云うことをお伺いさせて頂いたら、一生懸命自転車を踏んでおるところを頂いた。そして、あんまり踏んで自転車がバラバラに解体されたと云うところを頂いた。ははあ、自転車と云うのは自分で踏むと云うわけです。
自分で踏むと云う、いわゆる私が働く、生きると私がやらなければと云う我を取ると云うか、私が生きると云う生き方では解体、バラバラになって仕舞う。いわゆる我力で生きるとではなくてです、神力無限と云う無限の神力、無限の神様の働きの中に、いわば生かされて生きているのだと、いや生かされて生きるよりも願われて祈られて生きておる私であることが分かった時、神の大恩が分かった時です。だからお互い信心して神様の御恩は忘れませんと云っている様な御恩と云うのは、神の大恩でなくて神の小恩位のもんじゃないでしょうか。
だから、神の小恩が分かっただけでは私共の願いであるところの、いわば信心の理想郷であるところの無事壮健子孫も続き一年勝り代勝りのおかげを受けると云うことになって来ない。只神の小恩をわかっただけでは、例えばその一生懸命信心しておるその方だけは、それでおかげを受けるかも知れん、一生懸命お参りをするから一生懸命御用もさせて貰うから。けどもそうではなくて神の大恩を分からなければならない。
神の大恩を分かると理屈でならすぐ分かる。けれども神の大恩を心の底から分からせて貰って、心の底から湧いて來るその大恩に報謝しまつる、応えまつる。 神恩報謝の生活が本当に出来たところからです、これはもう絶対成程無事丈夫で子孫も続きと云うおかげ、一年勝り代勝りのおかげに続く。
だからそういうおかげを願いとしとらん者は一人もありますまいけれども、ならその神の大恩を知ろうと云うことに努力しない。神の大恩を分かろうと云うことに努力しなければならない。
仏教で自力と云い、他力と云う言葉があります。
例えば真言宗とか禅宗とか云うのは、自力の信心ですね。自分で一生懸命表行いろんな修行、難行苦行をさせて貰うてそこから道を開いていこうと、助かろうと云う。
他力と云うのは、浄土真宗、いわゆる親鸞上人様の開かれた道などはこれは純他力なんである。いわゆる神様のおかげ、神様のおかげだけで生きるのだと。
先日或御本を読ませて頂きよりましたら、やはり浄土真宗の偉いお坊さんが書いとられる御本の中に、成程親鸞宗いわゆる浄土真宗は他力だと、けれどもその前提として自力を辿らずして他力に入らずして他力が分かる筈がないと云う意味のことを云うておられる。だから自力も又大事だけれども自力だけで終って仕舞ったんではいかん。やはり自転車を踏んで踏んで踏んで、もう解体してばらばらになって仕舞うところまで行ってです、初めて翻然として、ああ一生懸命踏んだつもりであったけれども、その踏んで来たそのことすらもあなたのおかげを頂かなければ出来なかったんだと云うことが分かると云うのです。
皆さんが一生懸命朝の御祈念に参る。これは自力と云ってよいでしょう。けれども段々信心が分からせて頂く様になって來るとです、もうそうに頑張ってお参りしたと云いよるけれども、よくよく考えてみると参らされて参っておるんだ、許されて参って居るんだ、いや願われて祈られて参って居ったんだと云うことが分かる。その頃には朝参りなら朝参りが有難うて有難うてと云うことになって來る。
そこまでは・・・だからその過程と云うものを大事にしなければいけない。と云うて、なら過程ですから、一処へ留まって居ってはならない。
神の大恩、先ずは神の小恩から分からなければならないと云うこと。いや神様の働きちゃ素晴らしい、恐れ入ってしまう。あんな病気をした時に助けて貰うた、あんな難儀な時にその道を開いて頂いた。それは云うなら神の小恩と云うことです。
だからそういうところも一生懸命信心させて貰うて、それこそ泣く泣く辛抱しながらもそこを通り抜かせて頂くところにです、有難うて有難うてと云った様な境地も開けて來る訳です。
神の大恩を知ると云うことはね、だからそこのところがしっかり出来なければ、そして神の大恩を分からせて頂いたところからです、本当の私共の願いであるところの子孫繁盛であることも、無事壮健であることも、しかも一年勝り代勝りのおかげの頂かれる、いわば御神徳を受けると云う世界がです、の私は頂いたところが神の大恩を知ったところとこう思う。
神の大恩を知れば、たったそれだけです、もう簡単。その簡単なごとあるけれども、その簡単なことを、云うなら私共は一生がかりででもここんところを分からせて貰うて、神の大恩を分からせて貰わなきゃならん。皆さん一生懸命自転車を踏んでみえるところが分かりません。そこにしるしさを感じたり、難儀を感じたりするならばです、それはまだ自分の我力の信心だと知らなければならん。
それがいけないのじゃない。そしてそこのところが有難うなって來るおかげ。どうでもだから、神の大恩が分からなければいけませんですね。そこで段々自力のところをです、それこそ親鸞様の云ってある様にそれを振り捨てて、自力の心を振り捨ててと、こう云うとられる。だから振り捨ててと云うところに非常に精進がいる訳です。 昨日、北野の秋山さん〇少の当番でしたでしょうか、前日から残っておられる。二階の女の修行生の方達が休んどる部屋に一緒に寝ませて貰った。ところが上野先生が二時になったらもうこそこそ起きて行きなさる。だから自分も目覚めてまあだ時間がうんとあるから、寝んどきなさいと云うたけど、私も起こさせて貰うと私も一緒に起こさせて貰うた。はじめてゆとりのある信心と云うことが分かったと云うとります。
もう私は大体からひっきり根性がないから、もういつも会合の時にはいつも人に遅ればせ、もう人を必ず待たせなければ出来ん。それがもう自分の性分、もう当り前のごと思うとった。
これはこういう自分の一番いけないところに今日と云う今日はしみじみと分からせて頂いた。成程こちらがゆとりのある生き方を身につけなければいけない。成程親先生が四時の御祈念をなさるのに、三時半から出て來なさる訳が分かった。どうして上野先生、あなたこんなに早うから、あの御神飯も大して時間もかかるわけでもないであろうにと云うたら、上野先生が例えば親先生が四時の御祈念の祝詞座にお着きになって神様にご挨拶申し上げなさるときに、例えばギリギリにどん御神飯を上げたんでは、神様がそれこそ噛むかむ親先生の祈念をお受けにならなければならないことになる。
だから、いわば御食事として頂いて、そこで一服をなさった。その後に親先生が丁度後祈念座に着いて下さると云った様な私は気持ちで御神飯だけはだからゆっくり時間を取って炊かせて頂くと云ったと云うことを聞かせて頂いていよいよ感動したと云うことです。
本当に信心のおろそかな時にそんな話を頂いたら馬鹿のごとあるでしょう。けれどもこちらの信心が生き生きとして燃えて居るときであるならば、もう本当に身がじこじこする様な話なんです。
私共と神様との云うなら心の触れ合いと云うか、交流と云うものはそういう例えば、情をもって神様と通うのです。
そういう様な心と云うものがね、時折私共の心の上にも頂けたり感じたりすることがある。そういう心をいよいよ育てて行く事なんです、信心とは。そこから例えば神の大恩が分かる。例えば御神飯のことだけではない。全ての事にそういう心が使われる様になったときです、私は神の大恩と云った様なものを、わ、それこそ祈られ願われて居るのですから、自分の身に自分の信心の血肉になって天地の大恩に応えまつらなければならない。して細やかな情も使える様になって來る。
丁度そんな話をしているところへ電話が掛かって来た。秋山さんに娘さんの悦子さんから、福岡からかかって来たと、丁度傍らで西岡先生が何か信者さんへの案内を書いていた。秋山さんどういうこと悦子さんから云うて来たか、どういう難儀な心配のことかわからんけれども、そればってん、私が今電話を受け取ってお母さんが来とるなら替わって呉れと云われたとき、丁度秋山さん見て下さい、内堀悦子様と書いたところに悦子さんから電話はかかって来たと云うこげん間違いないですよと云うて、ああと云うて自分も有難いと思うて電話を受けたと云う。
ですからそのことをすぐまだお届に見えた。そして又いろいろとその事についてお届けがあったから、私が丁度一時の御祈念の後ですから丁度二百名位のお届けさして貰わんならん。その二百名からのお届けの中を丁度私が内堀悦子さんのお届けをしたところへ、秋山さんがお届けに見えた。私も又それと同じ様なことを云った。こげん間違いの無い神様の働きの中に色々なそれもありこれも起こっておるのであるから、いっちょも心配することはなかねと話したことでした。
だから実は今西岡先生からもその事を頂いたところですと云うて二人で感動して話し合ったことです。例えば一切の事柄の中にです、そうい神様、まして合楽に御神縁を頂いて親先生のお取次を頂き金光大神のお取次を頂いて起きて來るその事全てがです、こういう間違いの無い働きの中に起きて居るのであるから有難いと分からせて頂く様な信心なんです。だからもう全てが有難うなって來るんだ。それは私は神の大恩が分かったと云うことになるのです。
日々の日常生活の中にもうあらゆる事の中に、それは中に撫でさすりされる事もありゃ、叩かれる様なこともあるけれども、その事全部がそうなんです。
その御神意を体し、御神意御神慮を分からせて頂いての生活。そういう生活こそが天地の大恩を知った者の生活だと思うのです。
そういう生活をさして頂く様におかげ頂いたらです、それは昨日私と秋山さんと話させて頂いたのは、それは断片的な事には、はは本当に恐れ入って仕舞いますね。さ、悦子さんからかかって来た電話はそれは難儀な事であったかも分からない。けどその難儀もそういう間違いの無い働きの中にあっておるんだと思うたら、有難うなったと云う様に、それが全ての事の中にそれをそう感じられるようになると云うことが天地の神の大恩を知った者の頂き方なのです。そこから神の大恩を知ればと云うことは、撫でたりさすったりされることだけが有難いのではない。叩かれることも苦しい思いをすることも神の大恩の御働きの中にあるんだと分からせて貰った。そういう分かり方を神の大恩を分かったと云う分かり方なのである。
神の大恩を知れば一年勝り代勝り、子孫にも続き健康の上にもおかげが続き、しかも年勝り代勝りにおかげが受けられると云うのですから、どうでも断片的、合楽の方達はそこんにきをです、断片的には体験をしとると思うです。だからどういういつどんな場合であってもです、そういう神様の働きの中にある私共である。しかもです、取分け祈られ願われておっての事だからである。それを頂方、それが身に着いてしまった時に私は神の大恩が分かったときと云うのじゃないかと思う。
だから全ての事に信奉者、いわゆる神恩に報謝し奉らねば居られない。応え奉らなければ居られない生活も出来ることになります。そこから初めて自転車を乗り捨てて、云うならば徳の車に乗せて貰うと云うのじゃないでしょうか。
自力と云うところも大事なこと。だからそれが自力だけに留まって、只我力でそうにや頑張ってお参りをして参りよる。あんなときにはあんなおかげも頂いた、こんな時にこんなおかげを頂いただけの一生を終っただけではつまらん。そこを通り抜かせて頂いて、昨日秋山さんにお取次さして頂いた様なそういう働きが何時もそれこそ寝た間もそういう働きの中にあるんだと云うことを分からせて頂く。只今申します子孫繁盛も一年勝り代勝りも全ての人間の幸福の条件と云うものが足ろう程しのおかげ、何時どんな場合であっても、神様のおかげを頂かなければ立ち行くことじゃないんだと云う思い込みがいよいよ強うなって來ることになるのです。
だから皆さん、今一生懸命自転車で通って居る。自転車と云うことは自力、自分で一生懸命踏んでおると云うことである。そこを一つ一つ体験として積み上げて行く内にです、まあ云うならば単車なら単車、自動車なら自動車、只腰掛けて運転さえすればです、踏まんでも何処までも行けれると云う様なおかげになって行かなければいけない。
久留米の石橋先生が、この世は徳の船に乗って渡れと仰った。
御神徳を受けて神の大恩が分かった人のこれは姿でもあり又は思い込みでもあるのです。
この世は神様のおかげを頂かなければ立ち行くことではないんだと、それをいいえ私が一生懸命頑張らにゃと云うて頑張って、その頑張りは修行として受けて行かねばならんけれども、そこんところを乗り越えてそれを振り捨てれるところまで、お互いの信心が進んで行かねば神の大恩が分かると云うことではない。
神の大恩が分かるところにです、それこそ有難い。
今日私は今倉庫の二階が色々改造があってここで沢山頂いておる、云うなら美術品とでも申しましょうか、いろんな宝物の様なものが沢山ここに集まっておる。もう置き処がなくなった。だから二階全部をそのための倉庫として使用、今それが出来ておるんです。その事をお願いさして頂きよりましたら、夢楽庵と頂いた。夢の楽と云うこと。これは大変意味の深いことでしょうけれどもです、これは私の心の底にです、もういらん、そげな道楽もういらんと云いよるけれども、心の底にこれは一つの私の若いときの夢であったに違いないです。だからその私の夢がその様にして実現して行きよるわけです。けれどもそれは何処までも夢楽庵であってね、それこそ何の夢が覚めて敢果ないとかね、ああ夢じゃったと云うことになるのですから、ああいう例えば物とか宝物であろうが、それは夢のようなもの、夢の様な楽であります。だからそういうものは実に頼りない夢の様な楽ですから、それを求めてはならぬ。
ですから私はそういうものは求めませんと云うことにして仕舞った。ところが神様がです、それを若い時の夢を実現して下さっている様な感じなのです。だからそういう敢果ないものなら止めよう取りやめさせようと思うたら、あのふだん草と云う野菜がありましょう、あれの裏表をこうやって頂いた。そこは人間なのです。ですからね、ふだん草と云うことは日頃ということなのです。そこにやはり裏もなからなければ表もなからなければならない。お前はもういらんと云いよるけれども、さあ疲れたやれやれ一服したいときには、自分の好きなものが一堂に集められて眺められておったりしたら、お前の心がなごむだろう。楽になるだろう、そういう思いをもって神はこういう働きもしておるのだから、ま遠慮無しに受けてくれと云う意味のことを頂いた。夢楽庵です。
私はそこらへんのところをほんとに神様の情を情として受けて応えてゆく生き方でないとそんな素晴らしい事は生まれて来ないと思うです。さあ自分がちいと金が貯ったから、さあ美術館を建てようと、そういうものと違うと云うのです。成程それはです、それは何にもならぬものです。どんなに沢山の美術、それは水が出れば流れる。火事になれば焼けて仕舞う様なものです。何にもそれこそ果敢ないものなのです。けども、そういうものでもです、例えば私が、云うならば表の方で一生懸命働いて裏さね、帰った時です、ああ疲れたと云うときに、自分の好きなものを見とればその疲れも取ることが出来て、次にまた表に出て働く時の原動力が生まれて來ると云った様な願いもです、神様の願いに中にはある様に思うです。
だからそれも、そういうおかげの頂けれる信心もまたいると云うことです。もういらんと云うものじゃない。
いよいよお互いおかげを頂きまして、神の大恩が分かるところから段々そういうおかげにつながって來ると思うですよね。 どうぞ。